不老倉鉱山 その1
前章記事の「旧来満街道」は、こちらから!
それでは続き、行ってみましょう♪
こちらの標柱も、見事にP様にガジガジされていました(笑
「不老倉鉱山 下長沢墓地」だそうです。
徒歩3分…
P様に出会わぬように、ボチボチと行って見ましょう!
無造作に転がっている石。
実はこの石、半数位は墓石。
短い物でも60年位。
長くは150年以上か!?
長らく放置されて、こんな感じになってます。
大正13年の墓石。
友子(ともこ)や、家族の名前が記されています。
友子制度は、江戸時代から始まった、金属鉱山労働者間の、互助会制度のようなもの。
近代では、一部炭鉱でもあったようですが…
当時の労働環境は劣悪で、30代で亡くなる事が多かったそうです。
そんな時に残された家族を、「親分」又は「子分」が、代わりに養ったそうです。
もちろん怪我や病気で、働けなくなった場合も。
ちなみに親分の奥さんで、多い場合は(親分が亡くなって)、5回以上も結婚したとか!
詳しく知りたい方は、ネットで調べてくださいね♪
色んな形の墓石。
四角くカットされている墓石は、比較的新しい場合が多い。
奥に、綺麗に並んだ墓石発見!
二人の名前が記されています。
こちらは四人!
同時期に亡くなった方を、1つの墓に納めた場合と、
同じ友子の場合とがあったみたいです。
墓石には基本、住所と名前が記されます。
「秋田産」は、秋田生まれって事。
当時は「生」では無く「産」が使われていたんですね。
地域によっては、「村」の名前や「死亡原因」「日時」まで記されています。
書籍には残らない、貴重な資料です!
こちらは、昭和2年のものです。
瀬戸物のかけら。
別の墓地。
こちらの標柱は、大変な事になってます!
先ほどの墓地同様、無数に墓石が散乱しています。
明治44年かな?
こちらも先ほど同様、友子と家族の名前が記されています。
先ほどの大正時代の墓石には、「実子」と記されていましたが、
こちらには「實子」と記されています。
時代によるのか?地域の差なのか?
「實子(みこ)」とは、実子・血縁関係のある子供って意味だそうです。
今までになく、立派な段付墓石。
地位が高かったのか?有力者だったのか?
ここまで記事を読み進んで、不思議に思った方は居ませんか?
墓地って事は、人骨が埋まっているって事だよね。
って事は、骨もそのままあるって事だよね?
正解であり、不正解なんです。
江戸時代は、多くの罪人が働いていました。
落盤事故で、そのまま!って事も多かったようです。
罪人に関しては、戦中戦前頃まで、珍しい話では無かったようです。
(身分の低い人も、そんな場合が多かったようです)
どこぞのトンネル壁内から、人骨が発見されたなんて話も…
なので事故等で、遺体無しの墓石だけ!って場合も多かったようです。
それに近代になって炉焼(又は野焼き)されるようになっても、現代の高温炉と違い、
ほぼ完璧な硬い状態で骨が残っていましたから、
掘り返すと、確実に出ると思います。
鉱山墓地は、心霊マニア必見の場所かも!
ただ妄想で「おばけだ!怖いよ~」なんて騒ぐ前に、
現実世界のP様に襲われて、死ぬ事になりますが!(笑
*今年もすでに、5~6人襲われて、死人も出ています!
だんだんと、鉱山町に近付いて来ました!
そこで、赤レンガの構造物を発見!
中には、神棚らしき遺物が…
この時は、この建造物の正体は不明だったのだが、
後に「奉安殿」だった事が判明!
って事は、ここが学校跡なんです!
最盛期で鉱夫だけで、3,000人以上!
家族を含めれば、5,000人以上の町が形成されていたと思われますので、
学校があって当然!
画像A地点が、学校だと思う。
居住区遺構が多く残っているのが、画像B地点付近。
画像C地点付近が、選鉱場等の鉱山施設跡と思われる。
*画像は昭和23年、米軍撮影。
この辺りが、居住区のメインだったと思われます。
様々な、コンクリート製の遺構を発見出来ます。
住宅基礎でしょうか?
コンクリートで船を造った時代!
オルガンもコンクリートで作っていたようだ!(嘘
江戸時代は木製!
明治~大正にかけて、絵付け便器。
大正以降は、白い便器。
なのでこれは、100年以上前の代物と推察されます。
次回記事は、選鉱場編です!
それでは続き、行ってみましょう♪
こちらの標柱も、見事にP様にガジガジされていました(笑
「不老倉鉱山 下長沢墓地」だそうです。
徒歩3分…
P様に出会わぬように、ボチボチと行って見ましょう!
無造作に転がっている石。
実はこの石、半数位は墓石。
短い物でも60年位。
長くは150年以上か!?
長らく放置されて、こんな感じになってます。
大正13年の墓石。
友子(ともこ)や、家族の名前が記されています。
友子制度は、江戸時代から始まった、金属鉱山労働者間の、互助会制度のようなもの。
近代では、一部炭鉱でもあったようですが…
当時の労働環境は劣悪で、30代で亡くなる事が多かったそうです。
そんな時に残された家族を、「親分」又は「子分」が、代わりに養ったそうです。
もちろん怪我や病気で、働けなくなった場合も。
ちなみに親分の奥さんで、多い場合は(親分が亡くなって)、5回以上も結婚したとか!
詳しく知りたい方は、ネットで調べてくださいね♪
色んな形の墓石。
四角くカットされている墓石は、比較的新しい場合が多い。
奥に、綺麗に並んだ墓石発見!
二人の名前が記されています。
こちらは四人!
同時期に亡くなった方を、1つの墓に納めた場合と、
同じ友子の場合とがあったみたいです。
墓石には基本、住所と名前が記されます。
「秋田産」は、秋田生まれって事。
当時は「生」では無く「産」が使われていたんですね。
地域によっては、「村」の名前や「死亡原因」「日時」まで記されています。
書籍には残らない、貴重な資料です!
こちらは、昭和2年のものです。
瀬戸物のかけら。
別の墓地。
こちらの標柱は、大変な事になってます!
先ほどの墓地同様、無数に墓石が散乱しています。
明治44年かな?
こちらも先ほど同様、友子と家族の名前が記されています。
先ほどの大正時代の墓石には、「実子」と記されていましたが、
こちらには「實子」と記されています。
時代によるのか?地域の差なのか?
「實子(みこ)」とは、実子・血縁関係のある子供って意味だそうです。
今までになく、立派な段付墓石。
地位が高かったのか?有力者だったのか?
ここまで記事を読み進んで、不思議に思った方は居ませんか?
墓地って事は、人骨が埋まっているって事だよね。
って事は、骨もそのままあるって事だよね?
正解であり、不正解なんです。
江戸時代は、多くの罪人が働いていました。
落盤事故で、そのまま!って事も多かったようです。
罪人に関しては、戦中戦前頃まで、珍しい話では無かったようです。
(身分の低い人も、そんな場合が多かったようです)
どこぞのトンネル壁内から、人骨が発見されたなんて話も…
なので事故等で、遺体無しの墓石だけ!って場合も多かったようです。
それに近代になって炉焼(又は野焼き)されるようになっても、現代の高温炉と違い、
ほぼ完璧な硬い状態で骨が残っていましたから、
掘り返すと、確実に出ると思います。
鉱山墓地は、心霊マニア必見の場所かも!
ただ妄想で「おばけだ!怖いよ~」なんて騒ぐ前に、
現実世界のP様に襲われて、死ぬ事になりますが!(笑
*今年もすでに、5~6人襲われて、死人も出ています!
だんだんと、鉱山町に近付いて来ました!
そこで、赤レンガの構造物を発見!
中には、神棚らしき遺物が…
この時は、この建造物の正体は不明だったのだが、
後に「奉安殿」だった事が判明!
って事は、ここが学校跡なんです!
最盛期で鉱夫だけで、3,000人以上!
家族を含めれば、5,000人以上の町が形成されていたと思われますので、
学校があって当然!
画像A地点が、学校だと思う。
居住区遺構が多く残っているのが、画像B地点付近。
画像C地点付近が、選鉱場等の鉱山施設跡と思われる。
*画像は昭和23年、米軍撮影。
この辺りが、居住区のメインだったと思われます。
様々な、コンクリート製の遺構を発見出来ます。
住宅基礎でしょうか?
コンクリートで船を造った時代!
オルガンもコンクリートで作っていたようだ!(嘘
江戸時代は木製!
明治~大正にかけて、絵付け便器。
大正以降は、白い便器。
なのでこれは、100年以上前の代物と推察されます。
次回記事は、選鉱場編です!
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No title
墓フェチのオイラは行ってみたいと思ってしまいました!!
前にココをWebで調べた事はありましたがピンとくる情報を得る事は出来ませんでした
こんなにも残留物があるとは...流石まこちゃん隊長w( ̄o ̄)w
前にココをWebで調べた事はありましたがピンとくる情報を得る事は出来ませんでした
こんなにも残留物があるとは...流石まこちゃん隊長w( ̄o ̄)w
Re: No title
ここって山深く、危険な地域の為か?
情報って少ないんですよね。
私も地元の方からの情報が無ければ、大変だったと思います。
実は奉安殿の撮影に、再訪しなければ!と思ってました(笑
情報出し、同行出来ますので、お気軽に♪
情報って少ないんですよね。
私も地元の方からの情報が無ければ、大変だったと思います。
実は奉安殿の撮影に、再訪しなければ!と思ってました(笑
情報出し、同行出来ますので、お気軽に♪